チャモロ
(原住民)
時代 |
紀元前2,000〜1500頃
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地図に「マリアナ諸島」の名が出る3000年以上前、チャモロ民族がインドネシア・フィリピンからカヌーに乗ってマリアナ諸島に移住してきたと言われています。彼らは漁をしたりタロイモ、ヤシなど食べていたと考えられていますが。当時の遺跡は発掘されていますが詳しい調査はまだ進んでいません。今でもサイパンの象徴とされているラッテストーンは当時のチャモロ民族の手によって作られたものです。
※ラッテストーン:高床式の住居の柱だったと言われています。 国旗にも描かれています。
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1521年
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マゼラン率いるスペイン探検隊がマリアナ諸島を発見
かの有名なマゼラン(フェルディナンド・マゼラン)が世界一周の航海中にマリアナ諸島を発見し、初めてこの島々が西欧世界に知られるようになりました。はじめは彼らの乗っているカヌーの帆がラテン系民族(地中海近海)の船と同じだったことから、マゼランは「Latine
Sailsの島」と名付けました。その後スペイン人の支配に反発を始めたチャモロ民族が、マゼラン一向の船から略奪を繰り返すようになり、「盗賊の島」と呼ばれるようになりました。その後スペイン皇后により「マリアナ諸島」と命名されるまでの長い間、地図上でも「盗賊の島」と記されていました。
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スペインの
植民地時代
(約333年)
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1565年
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スペインがマリアナ諸島領有を宣言
スペインが正式に領有宣言をし、スペイン統治による植民地時代が始まりました。
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1667年
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スペイン皇后マリー・アンヌにより「マリアナ諸島」と命名
「盗賊の島」ではあまりにも体裁が悪いと、スペイン皇帝4世の妻マリー・アンヌにちなんでこの島々に初めて「マリアナ諸島」という名前が付けられました。
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1700年初期頃
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スペインによりチャモロ人がグアムに移住を強いられる
スペインによる統治が進むとキリスト教の普及がさかんになりました。現在のサイパンではチャモロ民族をはじめ根強く信仰されているキリスト教ですが、当時のチャモロ民族には規律が多すぎて受け入れがたかったため、激しい内乱が起きました。内乱の結果チャモロ民族は50分の1にまで激減し、とうとうグアムへの移住をさせられることとなりました。
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1800年初期頃
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東カロリン諸島からカロリニア人がサイパンへ集団移動
内乱がおさまった頃、東カロリン諸島トラックからカロリニア人がサイパンへ集団移動をはじめ生き残ったチャモロ人も少しづつ帰島をはじめました。
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1898年
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スペインがアメリカ−スペイン戦争で敗れる
対アメリカ戦争でスペインは大敗しました。
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ドイツ領土時代
(約15年) |
1899年
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スペインがグアムを除くマリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに売却
戦争に敗れた結果、スペインはグアムを除くマリアナ諸島と、パラオなどのカロリン諸島をドイツに売却しました。
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日本統治時代
(約30年) |
1914年
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第一次世界大戦勃発 赤道以北のドイツ領を日本が占領
第一次世界大戦が勃発すると当時勢いのあった大日本帝国海軍が、ドイツ領であったミクロネシア諸島を無血で占領し、日本から数多くのサトウキビ栽培や精糖に関する企業が進出しました。
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1919年
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第一次世界大戦終結 赤道以北のドイツ領における日本の委任統治が決定
ヴェルサイユ講和条約が締結され国際連盟決定の下、勝利国である日本は赤道以北のドイツ領を委任統治することになりました。日本によるミクロネシア諸島統治時代の始まりです。
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1921年
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松江春次(シュガーキング)が南洋興発株式会社を設立
占領以来進出がさかんだった日本の製糖企業ですが、戦後の不況にみまわれ相次いで撤収しました。そんな中で1921年に設立された製糖企業・南洋興発株式会社だけが、サイパン・ロタ・テニアンで一大事業として成功しその地位を確立しました。これによりサイパン・ロタ・テニアンをアジア最大の製糖産地として発展し、その設立者である事業家・松江春次はサイパン経済に多大に貢献した者として「シュガーキング」と呼ばれ現在でもサイパン史上最も有名な日本人として知られています。当時の松江の業績を称えサイパンの中心地であるガラパン地区に、現在観光スポットとしても有名な「砂糖王公園(SugarKingPark)」が設立されました。公園内にはサイパンの島を見守る高さ4mの松江春次の銅像があります。
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1939年
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第二次世界大戦勃発 |
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1941年
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太平洋戦争勃発
日本-アメリカ間で太平洋戦争が勃発しました。当初日本はグアム島も占領しサイパンに司令部を設置していました。サイパン・グアム・テニアン島はアメリカにとって日本本土への爆撃機往復を可能とできるためどうしても占領したい島であったため、日本本土を襲撃しながらこの島々の占領を企てていました。既にサイパン・グアム・テニアンは戦争の勝敗を握る重要な場所となっていました。
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1944年
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アメリカ軍によるサイパン・グアム・テニアン島進出 日本軍陥落
この年の6月15日、アメリカ軍はとうとうサイパン島の南西部の海岸から島の上陸に成功しました。南から北へじりじりと圧倒的な強さで日本軍を攻め入り、日本軍・民間人はそれに追われるように北へ北へと逃げました。ビーチや山中のいたるところで連日激戦が行われました。日本本土も襲撃にあっているため援軍も来ず、サイパンは孤立した戦場となり日本軍は北へ逃げる以外選択の道はありませんでした。サイパン島の最北部は80mもの切立った断崖です。崖まで追い詰められた日本軍・民間人たちは「生きて虜因の辱めを受けず」と、自決の道を選び身を投げました。苦しくもそこは母国日本に一番近い島の最北端でした。みな水平線の向こうにあるであろう母国に向かい「バンザイ!」と叫びならが身を投げました。アメリカ軍によるサイパン進出の約20日後、この年の7月9日には日本軍は陥落しました。その断崖の名はプンタン・サバネタとラデラン・パナデロ。現在「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ(自決の崖)」という別名で知られ、今もなお多くの人たちが慰霊に訪れています。米軍の死傷者14,000人、日本軍30,000、民間人15,000がサイパンの地に倒れたと言われています。
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1945年
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広島・長崎に原爆が投下される 第二次世界大戦終結
サイパン・グアム・テニアン島を占領したアメリカ軍はこの島々を拠点とし、一気に日本本土への攻撃を強化させて行きました。爆撃機として使用されていたB-29はこの3島だけで最大600機以上にも及び、東京・名古屋・大阪・神戸と日本の主要都市への攻撃は日に日に激しくなりました。そんな中、昭和20年5月中旬、特殊な動きを見せるB-29の極小編隊がホノルルを発ちテニアンに到着したことを日本軍はキャッチしました。あまりに不気味な動きを見せるその編隊の目的を日本軍は必死で調査しましたが全く解明できませんでした。そのたった2〜3機の編隊は、8月6日午前4:00過ぎにテニアン基地を発ち、硫黄島の米軍基地に対して「われら目標に進行中」という無線を発信して北進しました。電波をキャッチした日本軍は目標の場所とその目的を解明するのに必死でした。日本軍がその特殊編隊の目的と目標地点を知ったのは、編隊の中の一機「エノラ・ゲイ」号が8:15分広島市上空に原爆を投下した約24時間後、8月7日の早朝のことでした。日本の敗北をきっかけに第二次世界大戦は幕を閉じました。
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アメリカ合衆国
統治時代
(約54年) |
1947年
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施政権国をアメリカ合衆国とする北マリアナ諸島の国連信託統治が始まる
国連の信託統治領となり、施政権国をアメリカ合衆国となりました。北マリアナ諸島におけるアメリカ合衆国統治の始まりです。
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1975年
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北マリアナ諸島自らアメリカ合衆国の自治領となることを決定
北マリアナ諸島住民自らが住民投票によってアメリカ合衆国の自治領になることを決定しました。
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1986年
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北マリアナ諸島連邦としてアメリカ合衆国の自治領となる
国連信託統治終了が宣言され、北マリアナ諸島連邦としてアメリカ合衆国の自治による自治政府が設立されました。そして現在に至っています。現在サイパン・ロタ・テニアン島を含む北マリアナ諸島は正式国名を北マリアナ諸島連邦とし、アメリカの自治領となっています。
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